― 前編 ―
それはもうずいぶんと昔の話。
それでもつい昨日の出来事のように思い出すことができる。
あの頃の私は本当に浅はかで、周囲で言われているような思慮深い人間ではなかったの。
バロックヒート。あなたがいたから。
バロックヒート。あなたのおかげで。
私は今、こんなに穏やかな人生を送っていられるのよ。
あなたと私の出会いは・・・・・・・・・そう、ダイヤモンドが生まれるよりも、5年ほど前のことだったわね。
今でも覚えてるわ。
あのとき、あなたと会ったときの、互いに喜びあう魂の煌きを――――――・・・。
「レティシァ様、いかがなさいましたか?」
花びらが舞うジェムナスティの離宮の庭がまぶしい中、おずおずと、しかし芯のある声で尋ねられて、レティシァはふと我に返った。
「ああ・・・ごめんなさい、少々考え事を。お茶のおかわりは如何ですか? サリタ・タロットワーク」
「ありがとうございます。お言葉に甘えていただきます」
黒髪の青年の穏やかで丁寧な物腰にレティシァは笑顔で返事をして、ベルを鳴らし、やってきた侍女に用件を頼む。
侍女が一礼してテラスの扉を閉めるのを見届けてから、レティシァは口を開いた。
「それであなたは、わたくしの信託を得に、はるばるラボトロームからいらっしゃったのですね」
これまでのことを簡潔に確認して整理する。
「はい。正確には、僕とお師匠様に信託を頂きたいのですが」
タロットワークが言う“お師匠様”は、ラボトローム王国の公務が多忙だという理由のため、この場にはいなかった。そんなわけでタロットワーク1人がジェムナスティを訪れたのだが、彼とて長居できる訳ではない。
「ダイヤモンド様と殿下の安否を確認するためにも、かの魔神の力は必要なのです。無理は承知しています・・・が、どうかご助力願えませんでしょうか」
――――――お前一人でレティシァ・シンディア・ジェムナスティの元へ行って来い。そろそろ誰かが動かないと駄目だ。けど俺はココですることがある。っつーわけで期待してるぜサリー。
そう言って弟子をラボトロームから送り出した“師匠”スマート・ゴルディオン同様、切羽詰っているのはタロットワークも同じであった。トードリアの前国王の葬儀の後に消息を絶った2人の行方は、3年経った今でも依然として知れない。
子供たちのためにも、自分たちのためにも、なんとかして手がかりを見つけたい。
そういう理由ですがろうとした、最強の魔神・バロックヒートの存在。彼ならば知らないことはない。そう、きっと、素晴らしい解決口を与えてくれるだろう。
「お願いします、レティシァ様」
せいいっぱいの気持ちをこめて、タロットワークはレティシァの瞳をみつめた。穏やかなエメラルドグリーンのまなざしが、それを受け止める。
―――――不意にノックの音がして、先ほどの侍女がテラスに入ってきた。茶器をひととおり満たし、やはり一礼をして出て行く。
その動作を最後まで待って、レティシァは軽く息をついた。
「わたくしが、信託を差し上げるのは簡単なことです」
タロットワークはその意味ありげな物言いに、いぶかしげに目を細めた。
「けれど・・・」
レティシァは庭の花壇に目を移しながら続ける。
「あの方・・・バロックヒートには頼りたくない気持ちが、わたくしの中にあるのです」
「頼る・・・ですか? 失礼ですが・・・その、『頼る』のはレティシァ様ではなく僕らの方だと思うのですが」
「いいえ。同じことです、黒髪の魔法使い」
レティシァは言いながら、ひたりとタロットワークをみすえた。
「あの方には、何でもできる力がある。ヒトが頼るのも頷けます。・・・が、だからと言って頼りにしていいわけではありません。叶うことならヒト全てに、あの方を頼らずに生きて欲しいと、わたくしは思っているのです。信託を差し上げることは、貴方がたに『頼れ』と言っているようなものでしょう・・・?」
――――――駄目・・・か。明らかに、これは断りの言葉だ。
タロットワークは唇をかみしめた。
バロックヒートは、信託なしではとてもじゃないけれど喚びだせるものではない。勿論信託があったからといって楽に召喚できるわけでもないが、それでもずいぶんと負荷は軽減される。
タロットワークとスマートは、いざとなったらバロックヒートの力を当てにするつもりでいた。
――――――参った。最後の手段が絶たれてしまった・・・。
タロットワークは目に見えて肩を落とした。それを見て、レティシァは困ったように笑う。
「けれどもね、あの方の力無しにはどうにも出来ないこともあるのだ、ということを、わたくしは知ってるわ」
「・・・! では・・・!」
「いいえ、サリタ・タロットワーク。信託を差し上げるとはまだ言っていません。わたくしは・・・迷っているの」
レティシァの寂しそうな笑顔に、顔を上げかけたタロットワークは何もいえなくなった。気まずげに、茶に手を伸ばす。
風がさぁっと吹き、枝に咲き誇るサクラの花びらを散らしてゆく。
きれいだ、とタロットワークは思った。ダイヤモンドの話によれば、バロックヒートはたいていこの庭で過ごしていたらしい。
バロックヒートは確かにいたのだ。この光が散る庭に。――――こんなにも近い場所に。
「悔しいな・・・」
知らず、呟きがもれた。レティシァが驚いたように目を開く。
「悔しいですか」
「・・・・・・ええ。バロックヒートはここに居たこともあるのに、今はいない。手の届くようで届かない存在が、とても悔しいです」
「―――――――わたくしも。悔しい、と、あなたと同じことを思っておりました」
「え?」
「たった一度だけ。バロックヒートに頼ったことがあったのですよ・・・今となってはもう、昔のことですけれども。・・・今、その時のことを思い出していました」
タロットワークははじめて聞く事実に、驚きを隠せなかった。ダイヤモンドからは、「ママはね、バロックヒートの贈り物を一度も受け取らなかったんだぁ」と聞いていたから、なおさら。
「あの時ほど、悔しい想いをしたことはありません・・・」
そう言って、レティシァは儚げに微笑した。
「せっかくだから、聞いていただきましょうか。タロットワーク、まだお時間はありまして?」
「ええ、大丈夫ですが・・・」
「では・・・・・・・・・」
レティシァは、南国の空を見つめる。吸い込まれそうな青色だ。
「あれはもう・・・今から20年以上も前のことです・・・」
静かに、彼女は語りだした。
あれはまだ、ジェムナスティ王家に嫁ぐ前のことだった。
レティシァ、16の夏。奇妙なことが起こりだしたのは、たしかその辺りからだった。
奇妙なこと――というのは、毎回パターンが違い、いまから思うとすべて心当たりがあるのだが、とにかく当時は不可思議なことばかりだった。
例えば、暑いと思いつつ団扇で扇いでいると、気づけばふと目の前に冷たい水が入ったグラスが置いてあったり。
例えば、突然の散歩中に夕立が来ても、なぜか自分の周りだけ雨粒が落ちてこなかったり。
夜雷におびえて1度だけ声をあげたことがあるのだが、それ以来、とんと雷など見かけなくなった。―――そんなこと、あるはずがないのに。
「誰か、いるの」
ある日のこと、レティシァは勇気をだして庭に呼びかけてみた。彼はいつも、そこにいるような気がしていたから。
しかし予想していたとおり、あたりはしん、と静まりかえっている。
「誰かいるんだったら、返事をして」
庭は、さっきよりも静寂に満ちている。降ってくる太陽の光すら感じられないような、静けさ。
「世の中には不思議な存在がいるってことぐらい、私も知っているわ。驚かないから、出てきて。そこにいるのは・・・精霊さんなの?」
返事はない。
やはり、自分の気のせいなのか・・・。
しかし、諦めてくるりときびすを返したレティシァの耳に飛び込んできたのは、背中がぞくりとするほどの美しい声だった。
「精霊などではないよ」
慌ててレティシァは振り返る。そのエメラルドグリーンの瞳が、驚愕に見開かれる。
家の2階ほどにも届く背丈、絹糸のようになめらかな青紫の毛並み、切れ長の瞳をもつ顔は狼のような顔、そのもので――――。
「・・・驚いているようだね、レティシァ」
その言葉にはっと我に返ったレティシァは、胸に手を当てて深呼吸をした。
「あ・・・あなたは、どなた? ずっとここにいらした方?」
「そう。ずっとここにいて、君をみていた。――――私の名は、バロックヒート。魔術をつかさどる者だ」
――――魔術をつかさどる者?
「マジック、マスター・・・?」
レティシァはあまり詳しくはなかったが、宝石の国と言われているこのジェムナスティでは、魔術を利用して宝石を採取している。良家のたしなみで魔術の歴史はひととおり習ったため、マジックマスターの存在は知っていた。
「なぜ・・・こんなところに?」
「言っただろうレティシァ」
魔術の長は、くぐもった笑い声をあげた。
「君を見ていた、と」
さっぱり訳が分からない。
「私に何か用でもおありなの・・・?」
「いいや。ただ見ていただけだ」
レティシァには、バロックヒートが微笑んだように思えた。
(悪いひとではないみたいだけれど・・・)
どう答えてよいものやら、レティシァは困ったように尋ねた。
「それであなたは、私を見ていて、何か得なことでもおありなのかしら?」
目の前の女性の言葉にバロックヒートはきょとん、として、答える。
「得。得なことでは・・・あるのかな。ないかもしれん」
やはり訳が分からない。
レティシァは頭が痛くなったような気がした。だがバロックヒートの次の言葉で、雷が落ちてきたような衝撃を受ける。
「私はね、君に恋をしているのだよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はい?」
「これを恋と呼ばずになんと言おう? 私は君に惹かれているのだ。君を見ているだけで自然と微笑みが浮かぶし、君のためならなんでもしたい。君に喜んで欲しい」
「・・・えと、あの・・・わたくし、もう嫁ぎ先が決まっているので・・・」
考えるよりも先に出てきた言葉に、レティシァは自分で言って頷く。
「そう、だからあの―――――そういうことをおっしゃられても、無理ですわ」
「知っているよレティシァ。君に伴侶となるものがいることも、もうすぐ嫁ぐということも」
ではなぜこの魔神は、あえて応えようも無いことを言うのだろう。私に何を求めているのだろう。レティシァはただ次の言葉を待った。
「レティシァ、私が君の呼びかけに応えたのは、君と話がしたかったからだ。私のこの想いを知ってほしかったからだ」
「まぁ・・・わたくしとお話を?」
意外と簡単な要求に、レティシァは安心した。
「お話ぐらいなら、わたくし、喜んでお相手いたしますわ」
「それはよかった」
言葉とともに、魔神の切れ長の瞳が細められた。優しい優しい、微笑だった。
「実を言うと、疎ましがられたりしたらどうしようかと思っていた」
照れくさそうにつぶやくバロックヒートに、レティシァは笑う。
人間くさい一面を見せるこの魔術の長を、いっぺんで好きになった。
レティシァがジェムナスティの王家に嫁いだのは、それからまもなくのことだった。
バロックヒートはいつでも彼女の傍にいたが、その事実を知る者はなく、レティシァとバロックヒートは、遠すぎず近すぎず、非常に良好な関係を保っていた。
それが、王宮という不自由な空間に閉じ込められたレティシァにとって、何よりも心休まる事実であったのは、確かだ。
そう、あのことが起こるまでは、確かに。彼女は、幸せだと感じていた。
あのことが、起こるまでは―――――。
ダイヤモンドを授かったのは、レティシァが嫁いでから幾年か経ったころだった。
バロックヒートは心から祝ってくれたし、既に沢山の子供を抱えていた国王も、手放しで喜んだ。
ダイヤモンドは生まれたころから整った顔立ちをしていて、金髪とエメラルド色の瞳は母親ゆずり、レティシァはその愛おしい存在に常に心を配っていた。
奇妙なことに気づきだしたのは、ダイヤモンドが2歳になった頃のこと。
「何かがおかしい気がするのです」
ある日レティシァは、傍らのバロックヒートにぽろりと不安をもらした。
「何か、って、何がだね、レティシァ」
バロックヒートはその日も庭に腰を下ろし、愛らしい盛りであるダイヤモンドのお守りをしていた。レティシァはテラスでお茶を飲みながら、その光景を見る。いつものことだった。
「ダイヤモンドは、私に、似ていないわ。あの方にも似ていない」
「だが、確かに君たちの子だ」
「それは知ってるわ。私の子ですもの」
しかし、この言いようも無い不安はなんなのだろう。
子供は、親に似るものではないのか。ダイヤモンドは確かに可愛いけれども、何か域を越しているような気がする――――。
レティシァはため息をついた。
「・・・こんな悩み、馬鹿らしいことですね」
「レティシァ・・・」
気遣うような瞳で、バロックヒートはレティシァに視線を注ぐ。何か言いたげに、美しい眉をひそめた。
「実は・・・・・・私は、君に隠していることがある」
「―――――――え?」
怪訝そうな表情を作るレティシァに、バロックヒートは続けた。
「ダイヤモンドのことだ。・・・・・・私はこの子に、かつて『よい贈り物』を授けた」
「『よい、贈り物』・・・?」
「魔神が守護するものの子供に授ける加護のひとつだ。『よい贈り物』を授かると、その子供は美貌、健康、精神、運・・・あらゆる面において、特別な力を持つことになる」
レティシァは一瞬、何を言われたのか、よく分からなかった。
バロックヒートの言葉を何度か反芻して、ようやく頷く。
「・・・・・・・・・そ」
言葉が出てこなく、レティシァは喉に手をあてた。
息が、うまく、吸えない。
「そ、れで・・・」
「ダイヤモンドは、叶わない望みはないというぐらい、力を持つようになるだろう。・・・私がそう、魔法をかけた」
・・・・・・では、ダイヤモンドには、人知外の力が宿っているというの?
「なぜ」
しぼりだした声は、吐息とともに吐き出された。
「なぜ、そんなことを・・・!!」
「君が喜ぶだろう、と・・・そう、思った」
「喜ぶはずがないでしょう!?」
激昂するあまり、レティシァは席を蹴って立ち上がる。
「私は、あなたからの贈り物は一切いらない、と言ったはずよ!? 自分の手で抱えられる以上の物を貰っても嬉しくないわっ」
「・・・レティシァ・・・」
「人間はね、バロックヒート」
レティシァは長い長い息をはいた。
「力を持ちすぎてはいけないの。――――持ってしまったら、己に過信して傲慢になってしまう恐れがあるでしょう? 私は」
レティシァの目から涙がこぼれる。熱いものが頬を伝っていく。
「ダイヤモンドには特別な人生でなく、普通の人生を歩んで欲しいと思っているの・・・。あなたがしたことは、とんでもないことなのよ・・・?」
バロックヒートはなにも言わずに、ただうつむいていた。
「――――――出て行ってちょうだい」
レティシァが真っ直ぐに天へ向かって指を差した。
「二度と顔をみせないで」
バロックヒートの瞳が、驚愕に見開かれた。愕然としたように、呟く。
「レティシァ、すまなか・・・・・・」
「行って!! ―――――さようなら、バロックヒート」
ぎゅっと、レティシァは目をつぶる。
きっと、この次に目を開けたとき、彼はここにいないだろう。
ずっとずっと、この数年間、彼が支えだった。
彼無しの生活は考えられないほど、満たされていて、幸せだった。
でも、これは・・・裏切りだわ。
私に黙って、そんなこと、するなんて・・・。
「さようなら・・・」
レティシァは瞳をそっと開けた。
予想通り―――庭にはもう彼の姿はなく、ダイヤモンドがひとり、クッションの上に座って空を見上げている。
涙のせいで景色がゆらいだ。
後悔しないわ。だって彼は、自分のしたことの重大さを分かってないんだもの――――。
(さよう、なら)
震える息とともに紡ぎだされた声は、音にはならず、ただ風に漂っていった。
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